世にも奇妙なフツーの話「ミナミさん:これが世間の現実なのか?」
ミナミさん:横浜がまるでゴーストタウン??
一昨日ちょっと用事があって横浜駅に行ったんですよ。
湘南台はほとんどのお店も開き始めていて、雰囲気も
軽くなって来てるから横浜もそんな感じかなって思って
たんですけどね・・・どこもまだシャッターが下りてて
びっくりしましたです。
前に横浜に行ったときはたくさん人もいたし、ここまで
さびれてなかったのに今回は一体どうした?って感じでした。
シャッター商店街・・ゴーストタウンみたいだったです。
日常ではほとんどウイルス騒ぎと関係なく穏やかなので、
これが世間の現実なのか?・・と日常の現実と横浜で
見た現実とのあまりのギャップに驚いたミナミです。
どっちも私の現実なんだよね??
アシュタールぅ~~^0^;
「こんにちは こうしてお話出来ることに感謝します。
どちらもあなたの現実です。
あなたの目に見えるもの、聞こえるもの、感じるものが
あなたの現実なのです。
あなたがフォーカスしたところにあなたの現実が出来るのです。
それが思考エネルギーなのです。
思考が先、現実はあと・・と言うことです。
あなたは違う世界があるのではないかと思っていました。
ほとんどウイルス騒ぎが終焉したかのような現実もあるけど、
でも、まだ終焉も遠い現実もあるのかもしれないと思った。
だからまだ終焉していない現実を見たのです。
あなたはどの現実も見ることが出来ます。
5次元的な軽い現実を見ることもできますし、重い波動の
現実を見ることも出来るのです。
それが波動領域だということです。
固定された波動領域はありません。
5次元領域に共振したからと言って、ずっとそれが固定されるという
ことはないのです。
あなたが3次元的な現実を見てみたいと思えばいくらでも
見ることが出来るということです。
難しいですか?
たとえば、高速道路を走っていても、地上の道路に降りたいと
思えば降りることが出来ますね。
地上を走っていても地下道に行くことも出来ます。
その反対も可能です。
(しつこいようですが、波動が軽いのが良くて(天国で)波動が
重いのが悪い(地獄的な)ことではありません。
善悪ではありませんのでそれだけは誤解しないでください。
高速を走っている車が高貴だなんてことはありませんね)
軽い現実を見ていても、ちょっと重い現実も見てみたいなと
思えばいくらでも見ることが出来るのです。
まだウイルス騒ぎが終焉していない現実を見続けることも
可能ですが、それを望まないのであれば波動を変えれば終焉した
現実を見ることも出来るのです。
すべてはあなたがどこにフォーカスするかということです。
たくさん世界はあります。
波動領域も5次元、3次元などと表記しますが、はっきりと
ここからが5次元でここからが3次元などと言う境目はないのです。
とてもあいまいな感じなのです。
だから、いま自分がどこにいるのかよくわからないと思う
ことが起きるのです。
私はどの次元?どのくらいの波動に共振していますか?・・と
思う前に、どこに共振しますと決めてください。
どのような現実を見たいかを決めてください。
それが先です。
次元などは本来は数字で表すことなど出来ないのです。
ただ便宜的に使っているだけです。
あなたが気持ちよくご機嫌さんでいられるところ・・
それがあなたにとって軽い波動領域だということです。
あなたが不機嫌だと思うならば、それはあなたにとって重い
波動領域だということです。
不機嫌が好きだと思う方もいらっしゃいます。
それは、その人にとっては不機嫌がご機嫌な状態だという
ことになるのです。
不機嫌な状態がなんとなく落ち着くという方もいらっしゃいます。
それはその方の自由なのです。
あなたがどの現実を見たいかということです。
ウイルス騒ぎが終焉した現実を選ぶことも出来ますし、
まだ騒ぎが続いている現実を選ぶことも出来るのです。
あなたが見ている現実はどんな現実であれ、あなたが選んだという
ことを認識してください。
誰にせいでもありません。
誰に強制された(命令された)ものでもないのです。
誰かのせいにしてしまえば、あなたは自分で自分の現実を
創造することが出来なくなってしまいます。
あなた自身が自分の現実を創造しているのだと思えれば
あなたは自由にあなたの現実を創造することが出来ます。
あなたに愛をこめてお伝えいたします。」
ありがとう、アシュタール!感謝します。
マイコメント
どちらも自分の現実だということですね。
しかし、シャッターが下りた横浜駅に降り立ってしまうと、ウイルス騒ぎがまだ
収まってないと錯覚するだろうと思います。
でも、地元に帰ってみればいつもの通り商店街が賑やかだった。
ということもあり得るということですね。
だから、横浜駅に降りたら商店街の賑わいを取り戻したことを想像していれば
降り立った時に賑やかな以前の様な横浜駅を体験したかもしれないということです。
私たちの体験できる現実というのは無数のバリエーションがあるということに
なりますが、それを理解するのは難しいかもしれません。
なぜなら、その現実は個々それぞれが創り出しているのでひとつとして同じものは
ないということであり、それぞれが少しずつ、あるいはまったく違うことになります。
ある日、友人と渋谷のハチ公前で待ち合わせをしたとします。
ところが所定の時間になってもハチ公前に友人が現れず、電話したら、相手も
自分が見つからず探していたということもあり得る現実です。
お互いに同じ場所にいるはずなのに見つからないということも起きます。
それはどちらかが約束したけれど会いたくないという気持ちが強く働いた時に
起きることです。自分で会わないという現実を創るからです。
あるいは何かの事件が起き、会えないとかということもそうです。
少し話が難しいかもしれませんが、波動が上がると自分の周囲にいる人たちは
みんな波動が上がっている人たちです。でも、その同じ人でも波動が上がってない
人のバリエーションも存在していて、そういう人は時が経つにつれて、自分とは
会う機会が減って行くということもあり得ることです。
今後、そうしたことが増えていくだろうと思います。
でも、電話でやり取りしようと思えばいつでも話が出来る。しかし、実際には
会えないということも起こります。
電話で話したときには自分が相手の波動に合わせているからであり、会うという
現実は波動が違い過ぎると行き違いみたいな感じになるのだと思います。
つまり、私たちは自分の思考が創り出している仮想世界に住んでいるという
ことになるのだと思います。
コメント