破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:宇宙人が神として君臨している」
今日の破・常識!
宇宙人が”神”として君臨している・・
と考えればつじつまが合うことがたくさんあります。
神話を読まれればわかると思います。byアシュタール
アシュタールからのメッセージ
今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。
「宇宙人が神として君臨している」by アシュタール
「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。
いつもお伝えしていますが・・”神”という特別な存在はいません。
”神”という概念は、あなた達を支配・コントロールしている
存在が創り上げた概念なのです。
人間よりも崇高で、絶対的な力を持った存在がいる。
人間はその存在が居なければ生きてはいけない。
その存在のおかげで生かしていただいてる。
その存在のいうことを聞かなければ、ひどい罰を受ける。
などという概念を植え付けておけば、
支配者にとってとても都合が良いからです。
では、その崇高で、絶対的な力を持った”神”は誰なのでしょうか?
それは、宇宙人です。
笑い話、ジョークに聞こえますか?
そのような話を嘲笑するように教育されてしまっているのです。
宇宙人が”神”として君臨している・・
と考えればつじつまが合うことがたくさんあります。
神話を読まれればわかると思います。
神は崇高で、愛そのものである・・と書かれているようですが、
実はお互いの利益のためにケンカばかりしています。
そして、神は単一ではありません。
神話では、神はたくさんいますね。
それは、あなた達を支配してる宇宙人がたくさんいるからです。
あなた達を支配している宇宙人にもいろんな種族がいます。
主な種族はレプティリアンです。
その部下的な存在に、ナーガという種族と
金髪碧眼の種族がいます。
他にもいますが、主な支配者はこの3種族です。
同じレプティリアンですが、これも家族のようなもので
家族間、親族間のトラブルや利益の取り合いなどで
小競り合いがいつもあるのです。
それが神話となって語り継がれて来たという訳です。
そのような神話で語られている”神”の姿を
何かおかしいと感じる人たちがだんだん増えてきました。
ですので、神を単一化することにしたのです。
一神教・・一人の”神”という強大な存在を意図して創り上げました。
その”神”には実態がありません。
宇宙人がイメージして創り上げたものですので
イメージがバラバラなのです。
この場面ではこう言い、違う場面ではこう言うということになってしまい
矛盾がたくさん出てきているのです。
その場限りの話をたくさんしてしまいましたので
ある意味収拾がつかなくなってしまい
力技で何とか言いくるめている状態なのです。
ですから、いろんな宗派と呼ばれるものが出来
その宗派で自分たちの解釈の方が正しいと
争うことになってしまっているのです。
複雑怪奇なものとなってしまっているのです。
もう一度言いますが・・
あなた達が思っているような”神”はいません。
”神”だと教えられているのは、
あなた達を支配・コントロールしている
宇宙人(レプティリアン、ナーガ、金髪碧眼)のことです。
宇宙はワンネスです。
すべては同じ波動エネルギーで出来ています。
だから、みんな同じ存在なのです。
特別な存在などいません。
特別に秀でた、崇高な、絶対的な存在などいないのです。
ワンネスのことが理解できれば、
宗教的概念がどういうものかがわかります。
”神さま”などという存在がナンセンスだということがわかります。
すべては絶対無限の存在の分身です。
絶対無限の存在は”神”ではありません。
私であり、あなたであり、すべてなのです。
”神”という存在を自分の中に創らないでください。
絶対的な存在・・という意味で
”神”と呼ぶのであれば、あなたが”神”です。
隣の人も”神”です。
”神”という存在を崇拝し
自分の価値を落とさないでくださいね。
あなたに愛をこめてお伝えいたします」
ありがとう、アシュタール!
マイコメント
人類は宇宙人によって造られて、その宇宙人によって神と教えられて支配されて
いるんだよと言ったとしても、多くの人々は
「宇宙人が神だって、馬鹿なこと言っちゃいけないよ」
「そんなこと言うと神様の罰が当たるよ!」
という答えが即座に返ってくるだろうと思います。
それだけ洗脳が深いということです。
日本では戦時中は天皇が神様に等しいと教育され、敬わない人にはそれなりの罰が
与えられ、神格化されてきましたので、人々の心の中には宇宙人が神などという概念は
なく、ましてや宇宙人などいるはずがないと思っています。
このブログを読まれている方なら当たり前のことですが、とても信じられない話だと
思います。
神は一人であると教えるキリスト教の聖典である聖書にしたって、その中を子細に
読んでみればつじつまの合わないことだらけです。
今は聖書を手元に置いていないので詳細を述べることはできませんが、いけにえの
儀式だっておかいいものです。
神を崇めるために僕である人に捧げものを要求するのです。
牛や羊だけでなく、それが自分の息子の命だったりします。
あれだけ崇高である神がどうしてそのようなものを要求するのでしょうか?
おかしいと思わないのでしょうか?
聖書の中にいけにえの教えとしてこのような文章があります。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物
としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハ4:10)
意味するところは「人は、神が用意された方法でなければ救われません。」ということです。
つまり、神が要求するものに対しては人はそのすべてに応えなければならないからと理由から
いけにえを要求されたらそれに応じなければならないということです。
神のすることに疑問を差し挟まないようにということを暗に言っているに等しいものです。
教会で毎日このような教育されたら中身は本当に洗脳教育です。
聖書はあまりにも中身が膨大なために全編読む人は人んどいないでしょう。
だから、詳細を知られずに済むという利点もあるようです。
知らない人は教会で牧師の教えを聞いていればいいだけですからね。
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