破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:満足すれば執着しないのです」
今日の破・常識!
”いま”を楽しく生きていないから、死ぬことに不安を感じ
生きることに執着してしまうのです。
満足すれば執着はしないのです。byアシュタール
アシュタールからのメッセージ
今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。
「満足すれば執着しないのです」by アシュタール
「こんにちは こうしてお話しできることに感謝します。
死ぬときは死にます。
死なない人はいません。
物質の身体を持って人間の経験をしている人は必ず死ぬのです。
少々長いか短いかはありますが、死なない人はいません。
どんなに富を持っていようとも、権力を持っていようとも
物質の身体は必ず死ぬのです。
(死ぬ?無くなる?のは物質だけです
あなたである意識は身体を脱いでも無くなりません)
そうですね。
ならばいつ死ぬのだろうか?と考えるのではなく
いつ死んでもいいと思えるように生きてください。
いつ死ぬ?と怖がって、死ぬこと、死ぬときのことばかり考え
不安になるよりも、死ぬときは死ぬのだからいつ死んでも
後悔しないように生きようと考えたほうがいいのではないでしょうか?
いつ死んでもいい・・それは自暴自棄的な発想ではなく、
まだしたいことはあるけど、でも例えいま死んだとしても
楽しかったからいい、やりたいことはやったからいい・・
と思えるように生きていただきたいと思います。
病気を怖がり、常に病気におびえているよりも
楽しく生きている方が病気にもなりにくくなります。
そして、病気になったとしても自分がまだ死なない
と思っていれば死なないのです。
死ぬときは自分で決めるのです。
誰かに決められるのではありません。
もういいと思った時点で自分で身体を脱ぐのです。
こんなにすごい事故に遭ったのによく生きていたね・・って
思う人もいれば、ちょっと転んだだけで死んでしまう人もいます。
それはその人が決めたのです。
とても不思議で信じられない話しかもしれませんが、
波動エネルギーの観点から考えると理解していただけると思います。
思考が先、現実はあと・・自分がもういい
(この世界での体験はこれで終わります)と決めると
自分で身体の機能を止めることが出来るのです。
自分で機能を止めるというとまた訳が分からなくなると思いますが
自分で機能を止める現実を創造するということです。
事故を起こすというのもそういうことになります。
転んで打ち所が悪かったという現実を創造したということです。
自分で病気になるということもあるのです。
すべて、思考が先、現実はあと・・なのです。
話しが逸れましたので元に戻します。
ですから、死ぬことばかりを心配するのではなく、
どうやって楽しく生きるかにフォーカスしてください。
必ず終わりがあります。
どう終わらせるか・・それを考えてください。
やりたいことが出来なかった
もっと好きなことをしておけばよかった、と考えながら
(後悔しながら)終わらせるよりも、あ~、楽しかったって
思いながら終わらせる方が良いのではないでしょうか?
後悔しながら終わらせるのもまたそれは楽しい経験だと
思いますのでそれを望むならばいいとは思いますが、
それを望まないならば”いま”を生きてください。
”いま”を真剣に(深刻ではありません)楽しんで生きていれば
身体を脱ぐときも楽しかったぁ~と言えるのです。
死ぬことをそんなに怖れることもなくなるのです。
”いま”を楽しく生きていないから、死ぬことに不安を感じ
生きることに執着してしまうのです。
満足すれば執着はしないのです。
なぜかと言うと執着は欲求不満から来るからです。
欲求不満があるからもっともっとと思ってしまうのです。
欲求不満からの執着があると
気持ちよく身体を脱ぐことが出来なくなってしまいます。
死ぬことにフォーカスするのではなく
死ぬ前に何をしようかなというところに
フォーカスしていただければと思います。
あなたに愛をこめてお伝えいたします」
ありがとう、アシュタール!
マイコメント
私の知人で、亡くなったお母さんが毎晩夢の中に現れて助けて欲しいと言ってくると
言う話を聞きましたが、こうした人は自分が亡くなったことの自覚がなく、また今
自分がいる場所がどこであるかを理解できていないのだろうと思います。
また、それは自分がまだこの世界に未練を残しているために向こうに行けずにここに
留まっているものです。
こうした人は結構多いだろうと思われます。
もちろん私たちの目にはそのような霊を見ることが出来ないのでわからないだけです。
周囲にはうじゃうじゃいることだろうと思います。
それはやはり亡くなったときにやり残したことやまだやりたいことがあった場合に
そういう残り方をするのでしょう。
残念ですが、そうした場合には自分で亡くなったことを自覚し、またこの世への
未練と執着を捨てない限り向こうには戻れないでしょう。
こうした人には時間の感覚がないということを以前さくやさんが話したことと思い
ますが、私たちの時間軸にすれば永遠のことかもしれません。
しかし、悟る時には一瞬ですのですぐに戻れることと思います。
こうした狭間に残された人はいったいどうなるのか?とアシュタールに聞いてみたい
ところですが、私たちはそうならないように自覚を持つべきでしょう。
死はあくまでのこの世における肉体の終わりで合って意識体の終わりでないことを
自覚していないといけません。
そうした自覚があれば何か不慮の事故に遭遇(自分で創った現実)しても自分の死を
そのときに悟れることでしょう。
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