格差拡大、貧困増大…それでも「若者の生活満足度」が高いこれだけの理由、若年層に拡がる「宿命論」的な人生観

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格差拡大、貧困増大…それでも「若者の生活満足度」が高いこれだけの理由、若年層に拡がる「宿命論」的な人生観

親ガチャに外れたよ!

親ガチャに外れちゃったよ」。昨今、学生たちの会話に耳を傾けていると、時折そんな声が聞こえてくるようになった。オンラインゲームで希望のアイテムを入手するための電子くじシステムを「ガチャ」という。もともとは店舗などに置いてある小型の自動販売機で、硬貨を入れてレバーを回すとカプセル入りの玩具が無作為に出てくるガチャガチャが語源である。そのシステムに自分の出生をなぞらえたのが親ガチャである。

ガチャでどんなアイテムが当たるかは運任せである。ときには一発で大当たりすることもあるが、いくら課金しても弱いアイテムしか入手できないこともある。自分の出生もそれと同じことで、私たちは誰しもどんな親の元に生まれてくるかを選べない。そこには当たりもあれば外れもある。自分の人生が希望通りにいかないとしたら、それはくじ運が悪くて外れを引いてしまったからだ。親ガチャにはそんな思いが込められている。

近年の相対的貧困率(世帯の可処分所得の中央値の半分に達していない層の割合)に目を向けてみると、男性の場合、高齢層ではやや改善が見られるのに対し、若年層では逆に悪化している。女性の場合、男性ほど極端ではないものの、それでもやはり若年層で悪化している。

その貧困の要因の一つといえる失業も、その多寡は若年層になるほど学歴による差異が大きくなっている。またその学歴は幼少期からの家庭環境に左右され、さらにその家庭環境には教育に投資できる親の経済力が反映している。事実、全国一斉学力テストの平均点は親の年収と相関しており、子ども自身による勉強時間との相関度よりも強い

このような状況を反映して、いまの日本には「努力しても報われない」と諦観を抱く若者たちが増えている。統計数理研究所が実施している「日本人の国民性調査」で、1980年代と2010年代のデータを比較すると、この傾向は若年層の男性でとくに著しい。

人生はなかなか思うようにいかない。生まれたときから定められている宿命のようなものだ。自分の努力で変えることなど出来ようもない。そんな思いを抱えた学生たちが増えていてもおかしくはない。親ガチャはこのような時代精神が投影された言葉といえる。

でも人生には満足だ

個人の努力では乗り越えられない壁が目の前に立ちはだかっている。それが昨今の若者たちの実感だろう。ところが別の統計に目を向けてみると、そこからは彼らの意識の意外な側面も見えてくる。

生活全般に満足している人の割合について、NHK放送文化研究所が実施している「現代日本人の意識調査」で、1973年と2008年のデータを比較すると、65歳以上ではほぼ変化がないのに対し、それ以下では若年層のほうが大きくなっているのである。とくに10代後半での増加率が激しく、じつに70%以上の人が生活全般に満足と回答している

 

今日の若年層では、男女ともに相対的貧困率が上昇し、それを反映して「努力しても報われない」と諦観を抱く人も増えている。にもかかわらず、その状況に対して彼らは不満を覚えなくなっている。若者だけではない。子どもの貧困率の高さも近年は大きな社会問題となっているが、同じくNHK放送文化研究所が実施している「中学生・高校生の生活と意識調査」を見ると、現在の自分を幸福と感じる中高生も、この20年近く増え続けている。いったいなぜだろうか。

さらに別の統計を探してみると、この謎を解く鍵となると思われるデータもあることに気づく。先ほども触れた統計数理研究所の「日本人の国民性調査」で、1980年代と2010年代のデータを比較してみると、若年層では「自分の可能性を試すためにできるだけ多くの経験をしたい」という人が減っているのである。このデータから推察されるのは、人生に対する諦観の高まりと生活満足度の高まりは互いに矛盾しているわけではなく、むしろ前者が後者の原因となっているかもしれない可能性である。

それぞれの年代の中で若年層と高齢層を比較してみれば、もちろん若年層のほうが「多くの経験をしたい」という人の割合は高い。まだ残された人生が長い分だけ、チャレンジ精神に富んでいるのは当然だろう。しかし、時代をずらして同じ年齢層を比較すると、若年層ではチャレンジ精神が減退しているのに対し、高齢層では逆に増進している。時代とともに各世代の人生観は変わってきているようである。

しかもこれらのデータから分かるのは、歳をとるにつれて保守化していくという加齢効果より、新しい世代のほうが保守化しているという世代効果のほうが大きいという事実である。

期待値−現状=不満

私たちは、努力したら報われるという気持ちを強く抱いていればいるほど、努力しようというモチベーションを高められる。しかし、いくら努力しても報われないと、その分だけ著しく不満感を募らせることにもなる。期待値と現実のギャップが大きくなるからである。

他方、努力しても報われないと端(はな)から思って諦観していれば、努力してやろうというモチベーションはなかなか高まらないが、そこでたとえ報われなかったとしても、不満感はさほど募らない。期待値と現実の間にあまりギャップが生じないからである。

私たちの不満感は、このように期待値と現実の落差から生まれる。だとしたら、余計な理想など最初から描かず、期待値がそもそも低ければ、現実への不満もそれだけ低下することになるだろう。このような観点から現在の若年層を眺めてみると、その生活満足度の高さも説明できるように思われる。

昭和時代の経済成長率は、ときに10パーセントを超えたこともあった。しかし、すでに高度成長期も安定成長期も終えた現在では、良くても1パーセント留まりである。このような時代の変化は、若者たちの期待値に大きな影響を及ぼしているに違いない。

生活水準においても、学歴においても、一世代前のレベルを上回ることを容易に実感しえた山登りの時代はすでに終わっている。ほぼ平坦な道のりがつづく「高原社会」に生まれ育った現在の若年層にとって、これから克服すべき高い目標を掲げ、輝かしい未来の実現へ向けて日々努力しつつ現在を生きることなど、まったく現実味のない人生観に思えてもおかしくはない。彼らが眺めているのは、見上げながら登りつつある山の頂ではなく、その頂きの向こうに延々と広がるなだらかな地平だからである。

日本社会が高原化してすでに20年を超えた現在、このような人生観は彼らの親の世代にも当てはまるようになっている。しかし、彼らの親の世代はそのまた親の世代の学歴や収入を乗り越えることが割と容易だった。ちょうど時代の転換点の直後に位置する世代だからである。

そのため、親の学歴や収入を上回ることができない現在の子どもたちに接したとき、なんとも不甲斐ないと感じてしまう。このような状況を反映して、学生たちの中には「子ガチャに外れた」と親から言われている者も結構いるようである。親の期待どおりにいかない子どもの人生をこのように嘆かれたのでは、自分の責任でそうなったわけではない学生たちがなんとも気の毒である。と同時に、親の世代もまたこの言葉を発するようになっているという現実は、子どもの世代ほど極端ではないにせよ、彼らもまた同様の感性を持ち始めていることを物語っている。

不満を抱えた高齢層

日本青少年研究所が実施した「高校生の生活意識と留学に関する調査」によると、「現状を変えようとするより、そのまま受け入れたほうが楽に暮らせる」と答えた人は、1980年には約25%にすぎなかったが、2011年には約57%へと倍増している。

このような心性は、若者からハングリー精神が衰えたと批判的に捉えられることも多いが、現状を変えるためのハードルのほうが上がったと捉え直すこともできる。かつての若者たちが、見上げるような急な坂道を登り続けることができたのは、現在の若者たちより努力家だったからではない。後ろから強い追い風が吹き上げていたからである。社会全体が底上げされ続けていたからである。

たとえば、いま列車に乗っているとしよう。動いている列車と止まっている列車では、そのなかで同じ距離だけ前方に歩いても、スタート地点からの移動距離は違う。成長期の日本では社会全体が向上していたため、その勢いに乗ることで、わずかな努力でも現状を大きく変えることが可能な場合が多々あった。しかし現在の日本では、たとえ努力したとしても、現状はなかなかそう大きくは変わらないものへと変質している。このような時代の変化が、今日の若者たちの期待値を低減させている。

また、若年層ほど大幅な増加ではないせよ、その親の世代に当たる中年層でもやはり生活満足度は上昇傾向を示している。彼らもまた「子ガャ」という言葉を使うように、このような時代の空気をある程度は共有しているからだろう。他方で、高齢層だけは変化していない。かつての高度成長期に多感な思春期を送った世代であるため、その心性をなかなか変えることができず、当時の高い期待値をいまも保ち続けたままだからだろう。それが現在の社会状況と合致しなくなっているのである。

実際、若年層と中年層においては、生活満足度の上昇とともに刑法犯も減少している。ところが高齢層においては、その人口規模の拡大では説明しきれないほど刑法犯が増えている。昨今は暴走老人などと呼ばれることも多いが、不満感の塊のような高齢者がこの世代に急増しているのは、時代の変化に世代の精神が追いついていかず、そこに大きな落差が生じているからだろう。

しかし、じつはこれだけではまだ説明が足りない。人生への期待値を下げているのは、若年層だけでなく中年層でも同じはずである。しかし、生活満足度の上昇幅は、若年層のほうが中年層よりはるかに大きい。どちらも高原社会に生まれ育った世代であるにもかかわらず、両者の間には大きな落差が存在する。それはいったいなぜだろうか。

【後編】「「親ガチャ」という言葉が、現代の若者に刺さりまくった「本質的な理由」ではこの問題を考えていきたい。

 

マイコメント

ここ10年余りの間に急速に進行している貧困化が次第に表面化してきているように感じます。

親の収入が子供の教育程度や就職に与える影響が大きいというファクターが現実化してきて
いるということです。

今回の記事にある「現状を変えようとするより、そのまま受け入れたほうが楽に暮らせる」
と答えた人は、1980年には約25%にすぎなかったが、2011年には約57%へと倍増している。
という文面を目にすると暗い気持ちにさせられます。

確かに親の収入が低く十分な教育が受けられないという現実は子供の学習意欲だけでなく
世に出てからの物事を多角的にとらえ自分の有利な環境を作っていくという思考力を減退
させるだろうと思います。

確かに親の経済的問題があっても子供のやる気次第でどうにでもなるという考え方もあると
思いますが、あまりにもそういう現実の中にいると物事を多角的に見て有利な状況を創って
いくという考え方が出来なくなってきます。
つまり、環境に対する諦め感が強く支配するようになるのです。

私の場合も子供のころは経済的に満足な状況下ではありませんでした。
しかし、当時はまだやる気次第で環境は変えてゆけるという社会的通念が大きく支配して
いた時代であり、環境もそれに応えてくれる時代でした。

今は環境がその願望に中々応じてくれない時代で選択肢も狭まってきています。
その中で現状を受け入れるとする割合が25%から57%までに跳ね上がっている理由も
分かるような気がします。

しかし、問題点は学校教育にもあります。
知識を詰め込むやり方ではなく、自らが環境を変えていく想像力と創造力を育て上げ
様々なやり方を試して道を切り開いていく柔軟性のある思考力を身につけさせる教育が
必要なのです。ところが現実はそれを放棄してしまっています。

私の子供のころは先生がそれを教えてくれました。
知識だけでなく、その知識を生かして自分の環境を変えていくことが社会で生きて行く
秘訣だと教えてくれたのです。そういうのは今はないようです。
文部科学省の学習指導要綱に従いそこから一歩も逸脱することもないやり方です。
それでは日本をこれから引っ張ってゆく優秀な人材を育て上げることが出来ません。

だから、今の教育制度を根本から変えていくようなことをしない限り日本の将来は
危ういものになるでしょう。

また、とは言っても自ら稼ぐチャンスはこの貧困化が進んだ中でもまだまだあります。
それに気付けるかどうかも重要なことなのです。

そういう意味からも自分で考え自分で道を見つける思考力を養わないといけない
ものと思います。

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