破・常識 あつしの歴史ブログ「アシュタール:縄文の人たちはいつも幸せ?」
今日の破・常識!
幸せの概念の違いですね。
byアシュタール
アシュタールからのメッセージ
今日のアシュタールからのメッセージをお伝えします。
「縄文の人たちはいつも幸せ?」by アシュタール
「こんにちは こうしてお話できることに感謝します。
幸せの概念の違いですね。
じょうもんの人たちにももちろん感情はありました。
身体的にも痛い事もありました。
ただ彼らはそれに抵抗しなかったのです。
良い悪いという判断もなかったのです。
そこがいまのあなた達の社会とは違うところなのです。
幸せというのは状態です。条件ではありません。
あなた達の幸せは概ね物質的に恵まれている
人間関係(パートナー、友達、親子など)が
良好だということですね。それは条件ですね。
あなた達は、お金があれば幸せ
大きな家に住んでいれば幸せ
大好きな人と一緒にいられれば幸せ
旅行に自由に行ければ幸せ・・というように
何かが出来れば幸せだと表現します。
でも、じょうもんの人たちは
条件で考えることが無かったのです。
たとえば、人を好きになったとして
あなた達はその人が自分も好きになってくれる
(相思相愛)な状態が幸せであり
その人と相思相愛になれなければ不幸せ
かわいそうな私という考えがありますが
じょうもんの人たちは相思相愛にこだわらないのです。
自分がその人を好きだと思う気持ちだけで
十分満たされたのです。
じょうもんの人たちには
所有という概念がなかったので
もちろん物質的にも人より多く持っていることに
幸せを感じるということもありませんでした。
怒りという感情もありましたが
何かを取られた、裏切られた、傷つけられた
ということもありませんでしたので
ほとんど感じることがなかったということです。
何かイヤだと思うことをされたとしても
(わざとではなく何か考えの行き違いなど)
それを正直に伝え、相手と話しあい、
お互いの気持ちを理解しあうという事を
しっかりとしていましたので
後々まで引きずることもありませんでした。
生活に余裕があったので気持ち的にも余裕があって
人に対してあまりトゲトゲすることもなく
ちょっとしたことでイライラする
ということもなかったのです。
そして、そもそも二元的な概念、善悪、良し悪し
対極の世界という概念が無かったのです。
すべてがOKの考えでしたので
(もちろんイヤなことをすべて受け入れた
ということではありません
イヤなことはイヤだとはっきりと伝えていました)
善悪などで判断することはなかったのです。
善悪の判断は宗教で後に
あなた達の支配者に刷り込まれたものである
ということはお伝えしたいと思います。
神の言葉(支配している宇宙人の言葉)を
もとにしてつくられた判断の基準です。
常識、倫理観、道徳観なども同じです。
いまのあなた達はそれを判断基準として
判断することを刷り込まれてしまっているのです。
ですから、幸せだぁ~と思うこともなければ
不幸せだぁ~と思うこともなかったのです。
難しいですか?
幸せが良い事で、不幸せが悪い事だ
という判断が無かったのです。
何が幸せで、何が不幸せだという
判断が無かったのです。
常に自分でいることだけでした。
何かが起きたらそれもOKなのです。
身体を脱ぐ事にも抵抗はしません。
身体を脱ぐことは特別な事、怖い事、悪い事
忌む事では無かったのです。
時期が来れば(それは人それぞれです)
身体を脱ぐのは当たりまえだと思っていますので
何も考えず受け入れます。
(じょうもんの中期くらいまでは
もうテラでの経験はいいかなと思えば
自分で身体の機能を止めて身体を脱ぐ
ということも出来たのです。
自分で決めて身体を脱いでいたのです)
病気になる事が不幸せだ
という考えはありませんでした。
ケガをすることも不幸だとは思わないのです。
好きな人が自分の事を好きだ
と思ってくれるから幸せなどと条件的な何かで
幸せだと思うこともなかったのです。
常にニュートラルな状態だと
表現すればわかりやすいでしょうか?
だから、常に満たされていたのです。
ご理解いただけましたでしょうか?
あなたに愛をこめてお伝えいたします」
ありがとう、アシュタール!
マイコメント
縄文の人たちの持つ「幸せ」という概念は私たちの思う「幸せ」とは天地の差ほど
開きがあることが今回のアシュタールの説明でお分かりになったと思います。
しかし、頭では理解できても実感できなかったのではないでしょうか?
端的に言えば私たちのような「幸せ」という概念は持っていなかったということです。
常に善悪の概念を基準に「幸せ」と「不幸せ」という状態を判断する私たちにとって
そこに、もし善悪がなければ「幸せ」と「不幸せ」の違いを認識できないでしょう。
その善悪の基準は主に所有の概念に左右されるものです。
そのため、所有の概念がほとんどない縄文の人たちには私たちのような「幸せ」という
概念はなかったことでしょう。
そして、それを今すぐ縄文の人たちのような「幸せ」という概念に切り替えることは
難しいということも理解できると思います。
そのため、どちらが良いという判断はさておき、私たちの「幸せ」の概念をどのように
して、縄文の人たちのような所有と言う概念を持たない「幸せ」という概念に近づけて
いけるかです。
あるいは私たち独自の所有概念によらない「幸せ」という概念を創り出していけるか
だろうと思います。
文明は多様であり、それを決めるのは私たち自身だということを念頭において考えて
行くべきかもしれません。
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