お粗末なロンドンの水道が示す「民営化」の末路

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水漏れするイギリスの水道 社会問題

お粗末なロンドンの水道が示す「民営化」の末路

日本も対岸の火事ではない水道民営化を進める勢力が存在する

ロンドンを含むイングランド南東部の約900万人への水道供給と、約1500万人の下水処理を手掛ける英国最大の水道会社「テムズウォーター」が経営危機に瀕している。

同社は老朽設備の更新費用や環境規制対応など巨額の設備投資負担を抱え、2022年以来、株主に対して2025年3月までに15億ポンド(約2700億円)の追加出資を求めていた。2023年6月末時点で同社が調達できたのは5億ポンドにとどまり、残り10億ポンドの資金調達は難航していた。

こうした状況下で飛び出したのが、経営トップの辞任報道だった。

再建担うCEOが突如辞任

同社を立て直すため2022年に就任した最高経営責任者は、8年間の経営再建計画に取り組んできたが、後述する汚水放流など相次ぐ経営課題への対応に追われてきた。2023年10月に次の規制期間(2025~2029年)の事業計画の提出を控えていたが、6月27日に突然の辞任を発表した。

同社の資金調達や経営再建計画が暗礁に乗り上げているとの臆測が広がったほか、追加出資が得られない場合、政府が同社を一時的に特別管理下に置くことを検討しているとの報道も加わり、金融市場に動揺が広がった。

同社は7月上旬に2022年度決算を発表し、8260万ポンドの税引前損失を計上した。一時国有化による損失発生を恐れた既存株主は、7億5000万ポンドの追加出資に応じることを約束した。残り2億5000万ポンドの追加出資については、経営再建の行方を見極めたうえで判断するとしている。

テムズウォーターは44億ポンドの手元資金を保有しているとされ、追加出資を受け取れない場合も、すぐに資金不足に陥る状況ではない。同社の負債の平均年限は12年超で、5年未満に返済期限を迎える負債の割合は3割程度のため、向こう数年の返済原資は手元資金で賄える。

追加出資で一時国有化のリスクが後退し、突然の経営トップ交代による市場参加者の疑心暗鬼が薄れたこともあり、同社の財務状況を取り巻く不安心理はひとまず後退している。

老朽化で1日にプール250個分が水漏れ

英国の水道事業は近年、さまざまな課題を抱えている。

19世紀に整備された英国の上下水道は老朽化が進んでおり、水道管の水漏れや破裂事故が頻繁に発生している。今回問題となった水道会社の場合、水漏れによって失われる1日当たりの水の量は、オリンピック競技用の水泳プール250個分に相当するとの報道もある。

汚水による環境破壊も深刻だ。

英国では家庭からの生活排水や汚水と、排水溝などから流入する雨水が、同じ下水管を通って下水処理施設に運ばれる。大雨などで輸送能力を超える水量が下水管に流れ込むと、周辺の住宅や道路などへの逆流を防ぐため、河川や海に処理前の水が放流される。

2022年には英国全土で延べ175万時間、1日当たり825回の放流があったとされる。河川や海に流れ込んだ生活排水や汚水が、魚や鳥の汚染や生態系の破壊を引き起こしているとされ、下水道事業を営む水道会社はしばしば罰金の支払いを命じられてきた。

今回、経営問題が勃発したテムズウォーターも最近、2017年の汚水排出を巡って裁判所から330万ポンドの支払いを命じられた。2017年には2013~2014年の汚水排出で2030万ポンドの罰金を支払い、2018年には漏水対策が不十分であるとして1億2000万ポンドを支払った。

2030年までに汚水の放流量を減少させるため、下水処理施設に16億ポンドを投じる計画を発表している。

処理前の下水が放流された河川や海で遊泳し、健康被害を訴えるケースもある。環境庁はさまざまな観測地点で水質を測定し、定期的に公表している。放流を削減するための下水管の拡張工事などには膨大な資金が必要で、特効薬がないのが現状だ。

水道会社が抱える巨額の負債も問題視されている。

英国の水道事業全体では2022年3月末時点で606億ポンドの負債を抱え、テムズウォーターの負債がそのうちの137億ポンドを占める。財務の健全性を計る指標の1つで、企業の自己資本に対する負債の割合を表す「ギアリング比率」は業界全体で68.5%、最も低い水道会社で39.7%、テムズウォーターが80.6%と最も高い。

インフレで膨れ上がる負債

老朽化した設備の更新や環境規制への対応など、大規模なインフラ投資が必要な水道会社が、巨額の負債を抱えること自体は珍しくない。

問題は負債の多さと、その半分程度がインフレ連動債のため、最近の物価上昇で返済負担が増していることだ。しかも、物価上昇による元本の変動が水道料金の値上げで調整されず、負債の返済負担が膨れ上がる構図だ。

というのも、過去に発行されたインフレ連動債の多くが、住宅価格を含む小売物価指数(RPI)を参照指標としているのに対し、水道料金の見直し時に参照されるのは、住宅価格を含む消費者物価指数(CPIH)であり、前者の方が後者よりも一般に上昇率が高くなる傾向がある。

そこには規制産業である水道会社特有の水道料金の決定方式が関係している。地域独占で競争が少ない水道会社は、利益確保のために高い水道料金を設定し、利用者に不利益をもたらす恐れがある。

そこで水道事業を監督する水道サービス規制庁(Ofwat)は5年毎に、各水道事業者から提出された事業計画に基づき、「消費者利益の保護」と「水道事業の適切な機能維持」が両立可能な水道料金の上限価格や資金計画などを承認する。規制庁は事業計画の遂行状況を毎年確認し、目標を達成した場合には事業者に報奨金を支払い、未達の場合には罰則金を科す。

水道料金がインフレに連動するため、負債もインフレに連動させることは合理的な選択であった。だが、過去の規制価格がRPIに連動していたのに対し、次回の価格設定からはCPIHを用いることが決まっている。物価上昇によるインフレ連動債の返済負担が、料金値上げで調整しきれない。

安定供給のための「一時国有化」カード

今回の最大手水道会社の経営難を巡っては、一時国有化への懸念も市場の不安を増幅させた。一時国有化となれば、既存の株主や債権者は何らかの損失負担を負う可能性があった。

規制業種である水道事業には、経営難や義務違反で水道事業の継続が困難と判断された場合、国が一時的に特別管理下に置くSAR(Special Administration Regime)と呼ばれるスキームがある。公共性の高い事業の継続と危機の波及防止を目的としており、2021年には経営難に陥ったエネルギー企業に用いられたことがある。

SARの目的は、国が水道会社の経営権を取得することではなく、事業継承会社の選定・交渉・売却を終えるまでの間、水道や下水道サービスの安定供給を続け、顧客を保護することにある。また、水道会社が経営難に陥った場合も、納税者が損失を負担するリスクを軽減することにある。

SARの発動条件は、①水道会社が法律上の義務を果たさず、是正措置を取らない、または取れない場合、②不適切な経営判断や事業コストの予期せぬ大幅上昇で、資金繰り、資本増強、借り換えができない場合に限定される(1991年水道事業法)。

手元資金を持つテムズウォーターがこれらの事由に該当する可能性は低かった。ただ、別の水道会社も同社ほどの高レバレッジではないにせよ、同じような問題を抱えている。

政府は利用者の不安を和らげるため、万が一の場合もSAR発動によって水道供給や下水処理が滞ることはないことを伝えようとしたのだろうが、逆に投資家の不安を誘った面もある。

投資家にとってのもう1つの不安材料は、次の規制期間が始まる2025年4月以降、信用格付けがBaa2/BBBで見通しがネガティブな場合、配当金を支払うことができないという規則の存在がある。大手格付け会社が付与する同社の信用格付けは、こうした規則が該当する水準にあるか、それに極めて近い水準にある。

水道民営化の功罪

水道事業は長期に安定した収益が見込まれ、Ofwatによる規制も、「消費者利益」と「水道事業の安定性」を確保する透明性が高い仕組みとして評価されてきた。

1989年の民営化後、巨額の設備投資費用を賄うため、水道料金はむしろ値上がりしてきたが、同時に人件費や経費削減など経営効率の改善も進んだ。この点は民営化による成果だろう。

だが、老朽化した水道管の破裂や水漏れ、環境破壊を引き起こす放流、散発的な給水制限などが相次ぎ、消費者の水道会社を見る目は厳しい。

今回の問題発覚後の一連の報道でも、「水道会社は民営化して以降、株主に高額の配当金を支払ってきた一方で、重要インフラの維持・管理に投資をしてこなかった」、「消費者が料金引き上げで負担を強いられてきたのに、水道会社の経営陣は高額報酬を受け取っている」といった批判の声も聞かれる。

水道事業が公共の利益を十分に満たしていないと考える国民は増えており、最近の世論調査では、回答者の63%が「水道事業を国営にすべき」と回答している。

過去13年間、英国の政権を率いてきた保守党は、相次ぐスキャンダルや政策迷走で、厳しい政治環境にさらされている。7月20日に行われた下院の補欠選挙でも、2つの選挙区を失った。

各種の世論調査によれば、2024年に実施が予想される総選挙では、最大野党の労働党が政権を奪取することが確実と見られている。

再国有化はなくても、公的関与が強まる

前回総選挙で労働党を率いたコービン前党首は、鉄道や公益企業の再国有化を選挙公約に掲げていた。次の首相就任が濃厚なスターマー現労働党党首は、再国有化の公約を撤回したが、労働党支持者の多くが国有化を支持している。

水道事業の抱える問題の多くは、再国有化によって解決するものではなく、次期政権が水道事業の再国有化に踏み切る可能性は低いが、規制の見直しなど、何らかの公的関与を強めることが予想される。

今回の水道会社の経営難と2024年の総選挙は、サッチャー元首相が進めた英国の民営化モデルが軌道修正される転機となるかもしれない。

(田中 理 : 第一生命経済研究所 主席エコノミスト)

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