読み取り装置・請求システムの導入費用が大きな負担、「制度についていけないので閉院を考えている」来年4月医療機関が1万件倒危機
前編
政府は今年12月に紙の保険証を廃止して、「マイナ保険証」への一本化を強行する構えだ。マイナンバーカードを持たない人を中心に不安が広がっているが、カードを取得しているか否かにかかわらず、多くの人に深刻な影響が及びそうだ。マイナ保険証導入により、町の小さな医院や歯科クリニックが廃業に追い込まれている。【前後編の前編】
【写真】とある歯科医院の入り口に貼られた「保険証廃止に伴い閉院しました」の紙
〈保険証廃止に伴い2024年4月30日 閉院しました〉──東京・杉並区の住宅地にある歯科医院の入り口に、そんな張り紙があった。
張り紙を出した医院は取材に応じなかったものの、この3月から4月にかけて東京だけで病院・診療所211機関、歯科医院84機関が廃業した。医療機関の廃業・解散が過去最多だった昨年でも全国で709機関(医科・歯科合計)という数字だ。たった2か月間で、東京だけでも300近い医療機関が廃業した今年が、いかに異常な“廃業ラッシュ”であるかがわかる。
3月末に廃業した内科医院の元院長A氏が語る。
「マイナ保険証の導入と紙の保険証廃止が閉院を決めるきっかけになりました。オンライン資格確認(マイナ保険証の読み取り)などのシステム導入には費用がかかり、国の補助があっても、とても足りない。手間もかかる。私と看護師1人でやっていたから、慣れない患者さんにマイナ保険証の認証で質問されたり、認証のトラブルがあれば診察に大きな支障が出てしまう。閉院にあたって連絡を取った仲間の開業医にも、当院同様、制度についていけないので閉院を考えている人が何人もいました」
なくてはならない地域の医療機関が減っていく
全国約10万7000人の医師、歯科医師が加入する全国保険医団体連合会の本並省吾・事務局次長は閉院する多くの医院は同じ事情を抱えていると話す。
「2022年の統計では開業医の高齢化が進み、平均年齢は60歳前後。特に地方では人口減で新規開業に多額の費用がかかり、採算が取れそうになくて新たに開業する人がいないなか、高齢になった開業医が地域医療を支えているのが実態です。後継者が確保できず、医療過疎が進んでいます。
患者が少なく小規模な医院や地方の医療機関には、新規の設備投資をする余裕はない。それなのにマイナ保険証導入・オンライン資格確認システムの設備投資を小さな医療機関まで全国一律に義務付けた。そうなると医師も返済の見通しが立たないのに借金してまで頑張って続けようとは思わないわけです。結果的に高齢医師のリタイアが増え、長年患者さんに慕われてきた先生が廃業していく。なくてはならない地域の医療機関が減っていくのは大きな問題です」
患者にとっては、長年、自分や家族を診察してもらっていたかかりつけ医から突然、「閉院することになりました」と言われることのショックは大きい。神奈川県在住の70代女性はこう言う。
「自宅近くの小さなクリニックに定期的に通っています。私の体質や、これまで罹ってきた病気など、先生がすべて把握してくれていて、新しい症状が出ても、私の病歴を踏まえたうえで薬を出してくれる。なので、急に閉院すると言われたら、不安しかありません。信頼できる病院や医師を紹介してくれるのか、これまでのカルテは共有してくれるのか、など気になることはたくさんある」
閉院する場合、医療機関は継続的に通院している患者に閉院の時期を通知し、患者が希望すれば医師が転院のための診療情報提供書を書く義務がある。カルテも閉院後5年間の保管義務があるが、患者に渡す義務はない。
やはり不安は拭えない。
(後編へ続く)
※週刊ポスト2024年7月19・26日号
後編
政府が進める紙の保険証の廃止と、「マイナ保険証」の導入。今年12月にはマイナ保険証への一本化を強行する構えを示すなか、影響を受けるのは市民だけではない。町の小さな医院や歯科クリニックがシステム変更による負担増を強いられ、続々廃業に追い込まれているのだ。暮らしを支える「かかりつけ医」の現場で、何が起きているのか。
なぜ、マイナ保険証の導入が、地域の医療体制を不安にするほど医療機関の経営を圧迫するのか。
政府は昨年4月から医療機関にマイナ保険証の対応を義務化した(完全義務化は今年9月)。それに合わせて診療所や歯科医院に1台、病院には最大3台の「読み取り装置」を無償配布したり、購入する際に補助金を出した。
小規模な医院にかかっても受付にマイナ保険証の読み取り装置が置かれているのはこのためだ。
政府はマイナ保険証導入の医療機関側の実質負担はゼロと説明している。
だが、現実は違う。マイナ保険証とセットで導入された医療費の「オンライン請求」義務化が医療機関に重い負担となっている。これは、医療機関が診療報酬を請求する際、医療費を計算したレセプト(診療報酬明細書)をオンラインで申請しなければならないというものだ。
工事費に300万円
岐阜市で70年以上続く歯科医院の院長B氏(70代)も、廃業を考えている1人だ。こう語った。
「マイナ保険証をオンラインで資格確認するためには診療報酬明細書の作成専用のレセプト・コンピュータ(レセコン)まで全部オンラインでつながなければあかんのです。うちは今もレセプトは紙に手書きして診療報酬を請求しているから、レセコンもネット環境もない。新たに導入するには数百万円の費用がかかるが、あと何年やれるかわからないのに、そんな設備投資はできません。紙の保険証が廃止される12月が辞め時かなと思っています」
負担増はすでにレセコンを導入してカルテやレセプトの電子化を済ませている医療機関にも及ぶ。
全国約10万7000人の医師、歯科医師が加入する全国保険医団体連合会の本並省吾・事務局次長が語る。
「医療機関のなかには、レセコンを導入して電子カルテやレセプトの入力を行なっているが、患者の個人情報が流出しないようにネットにつながず、月1回の医療費請求の際にレセプトの情報を記憶媒体(CD-ROM)に入れて焼いて郵送しているケースがかなりある。だが、今年4月からはその電子データをオンラインで送信しなければならなくなった。厚労省は、すでにデータは入力されているから事務が効率化できると考えているようだが、医療機関側では新たなリスク・コストが経営を圧迫する。システムの全面改修が必要になったケースもある」
しかも、マイナ保険証・オンライン資格確認システムにWi-Fiは使えない。NTTのマイナ専用の光回線・光ファイバーを医療機関内に敷設しなければならなくなった。医療法でサイバー対策も義務化され、高額な機器を導入して防衛しないといけない。
「それなら今まで通りCD-ROMに入れて郵送したほうがコストがかからないし安全でしょう。なのに過疎地域や中山間地で開業していても、わざわざ全部に光回線を引かせた。古い建物に入っているクリニックなどは、コンクリートの壁をぶち抜かなければならないから、工事費に300万円くらいかかったケースはざらにあります。
パソコンもレセコンと別に、マイナ保険証専門のハイスペックなものを買えと言われた。回線、パソコン、ルーターと一式を新たに揃えるのにどれだけ費用がかかるか。電子データをCDで郵送する方式で全く困らないのに、余分な負担です」(同前)
来年4月までに続々消える
このレセプトのオンライン申請が義務化されたのは今年4月。この3~4月から医療機関の廃業が急増したのは、義務化前に駆け込みで辞めたものと考えられるのだ。
手書きのレセプトやCD-ROMに焼いて請求していた医療機関の場合、申請すれば1年だけオンライン請求を猶予される。前出のB院長のように4月までの廃業が間に合わなかった医療機関は、当面は紙やCD-ROMのレセプトで請求しながら、今年12月の保険証廃止のタイミングなど1年の猶予期間中に続々と廃業することが予想されるのだ。
今後どれだけの医療機関が消えていくのか。恐ろしい数字がある。全国保険医団体連合会は昨年10月、記者会見を開いて「オンライン請求義務化反対」を訴えた。
その際にまとめた資料によると、全国の医科診療所のうち診療報酬をCD-ROMや紙レセプトで請求していたのが1万5700機関、歯科医院では4万680機関にのぼる。同連合会のアンケート調査でそのうち19%が、「義務化されると廃業せざるを得ない」と回答しており、最大で「医科」の診療所が全国で2983機関、「歯科」の医院が7729機関、合計1万712機関が廃業する可能性があると試算している。
だが、同連合会や開業医らの反対にもかかわらず、政府が方針通り今年4月からオンライン請求を義務化した途端、かつてない規模の廃業ラッシュが起き、「医療機関1万件廃業」が現実味を帯びてきた。本並氏が指摘する。
「患者にとってマイナ保険証もレセプトのオンライン請求義務化もメリットは全くない。医療機関も負担が増えるだけ。その結果、医療機関の廃業が増えて地域によっては医療が受けられない事態になりつつある。地方で医療機関がなくなれば安心して子供を産めない、育てられない。高齢者も安心して暮らせない。そんな医療限界集落、歯科医療限界集落が全国に増えています」
患者にとってあまりに深刻な危機が、すぐそこに迫っている。
コメント