これぞ「上級国民」の典型例…森永卓郎さんが死の直前に訴えた「天下りを止めない財務官僚」の呆れた実態
官僚制度に逆風が吹き始めたきっかけ
敗戦後の日本のグランドデザインを描き、奇跡の高度経済成長を実現するなど、うまく機能していた日本の官僚制度に逆風が吹き始めたのは1980年代のことだった。行政改革機運が国中で盛り上がったのだ。
1つのきっかけは、1981年に土光敏夫経団連名誉会長を会長に招いて発足した第二次臨時行政調査会だ。この調査会が、三公社(国鉄、電電公社、専売公社)の民営化や地方議会定員の削減などを盛り込んだ答申を次々にまとめたのだ。
もう1つは、大蔵省が「財政再建元年」を打ち出したことだ。
それまで国債をほとんど発行していなかった日本は、1973年の石油危機がもたらした深刻な不況を克服するため、大規模公共事業を行ない、その財源を国債発行に求めた。
国債の満期は10年のものが圧倒的に多く、10年後には元本を返済しなければならない。だから、歳出削減が必要だと大蔵省が言い出したのだ。
詳しくは『ザイム真理教』でも述べたとおり、本当は、満期が来たら新しい国債に借り換えればよいだけの話なのだが、東大法学部が支配する財務官僚は、経済や金融がまったくわかっていなかった。
さらに、マスメディアも行革ブームを支えた。先頭を走ったのは産経新聞だった。
行革の必要性を紙面で訴え続けたのだ。
そのなかで最初に大きな反響を呼んだのが、1983年に報道した東京・武蔵野市職員の4000万円退職金問題だった。市民感覚からかけ離れた高額退職金を追及する報道は、同市職員の退職金引き下げのきっかけとなった。
行革ムードの決定打となった破廉恥事件
行革ムードは長期間続いたが、その決定打となったのが「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」だった。
1998年に大蔵省の職員が、東京都新宿区歌舞伎町のノーパンしゃぶしゃぶ店「楼蘭」で銀行から頻繁に接待を受けていたことが発覚したのだ。
ノーパンしゃぶしゃぶというのは、パンツを穿かないミニスカート女性が接遇をする一種の風俗店だ。床が鏡張りになっていて、女性の生身の下半身が映っている。それを覗き込みながら、しゃぶしゃぶを食べて、酒を飲む。そのあまりに醜悪で下品な官僚の姿を想像して、国民の怒りは頂点に達したのだ。
また、この当時、大蔵金融検査部のOBと現役の検査官がメンバーとなっている「霞桜会」という親睦会の存在もクローズアップされた。霞桜会の会員数は400名あまりで、会には「霞桜会会員名簿」が存在する。名簿には会員の所属が記されていて、OBの多くが銀行、証券会社、ノンバンク、生保、損保などの金融機関に天下っていることがわかる。金融機関はこの名簿をもとに接待を行なうのだ。
ある大手都銀MOF担(森永注:Ministry of finance=大蔵省を担当する銀行や証券会社のエリート社員)はこう明かす。
「確かに霞桜会名簿は、接待に欠かせません。ただ、それだけじゃ足りないんです。検査官の名前のわきに、学歴、誕生日、出身地、家族構成と名前、奥さんの出身校、酒量、女の趣味、ゴルフのハンディまでぎっしり書き込んで、やっと完全な名簿になる」
中元、歳暮だけでなく、誕生祝いや入学祝いを贈る「元本」というわけだ。「この名簿を見て、奥さんに誕生祝いの花を贈った同じ日に、検査官をソープランドで接待したこともあった」(同MOF担)という。(略)ある都銀のMOF担OBは「霞桜会なんて、完全に官民癒着のための組織ですよ。接待する側とされる側が一緒に会員になっているんですから」と語る。(『週刊現代』1998年2月21日号)
国民の怒りの矛先は「接待は絶対に許さない」ということだけでは収まらず、政治も厳罰に動かざるをえなくなった。官僚の逮捕者は7人に及んだ。
日本道路公団経理担当理事(大蔵省OB)、大蔵省証券局総務課課長補佐、大蔵省証券取引等監視委員会上席証券取引検査官、大蔵省金融検査部金融証券検査官室長、大蔵省金融検査部管理課課長補佐、日本銀行営業局証券課長などの7人だ。
彼らは起訴され、執行猶予付きの有罪判決が確定した。実刑こそ免れたものの、「官僚は何をしても有罪にならない」という慣例が破られたのだ。
「金と女」官僚が食べた毒まんじゅう
影響は政界や大蔵省幹部にも及んだ。辞任に追い込まれたのは、三塚博大蔵大臣、松下康雄日銀総裁、小村武大蔵省事務次官、山口公生大蔵省銀行局長、杉井孝大蔵省銀行局担当審議官、長野庬士大蔵省証券局長、中島義雄大蔵省主計局次長、大蔵省銀行局保険第一課課長補佐と大物ばかりだった。そのほかにも多数の官僚が辞任した。さらに大蔵省、日本銀行、都市銀行から3人の自殺者まで出したのだ。
じつは、ノーパンしゃぶしゃぶで官僚に渡った毒まんじゅうは、全体から見たら氷山の一角どころか、無視できるほど小さな金額にすぎない。
しかし、そのあまりに破廉恥な内容に世間は大きく反応したのだ。ちなみに、一切報道されておらず、本人たちの証言もないのだが、当時の事情に詳しい人の話によると、楼蘭でのサービスは、ノーパンでしゃぶしゃぶを提供するだけではなかったという。ノーパンの女性はあくまでも顔見世で、官僚たちはそのなかから好みの女性を選んで歌舞伎町のシティホテルに連れ込んで、事に及んでいたそうだ。
その話を聞いて、私の頭によみがえったのは、40年前に渋谷の円山花街で、宴の部屋の隣で布団を敷いて寝ていた若い女性の姿だった。官僚は40年間も同じようなことを繰り返していたのだ。
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