日本の学校教育が「他人の目」ばかりを気にする日本人を量産している
自由を重んじる米国の教育との差がそこにある
新型コロナウイルス感染拡大を機に始まった「新しい行動様式」。マスク着用の生活も3年目に突入している。一方で海外では「脱マスク」の動きも進みつつあり、日本でもテレビ番組の街頭インタビューなどで「いつマスクを外すのか」といった問題が取り上げられるようになった。その際の回答では、「周囲に合わせる」といった“様子見”も目立つ。このように日本では「他人の目」が行動を制限するケースは少なくない。
そんななか、「周りの目を気にして、自分の行動が制限されるのはおかしい」と述べるのはネットニュース編集者の中川淳一郎氏だ。同氏は、自身がこうした考えを持つようになった背景には、アメリカで過ごした中学・高校時代の教育が影響しているのではないか、と自己分析する。中川氏が、自身の経験をベースに、日米の学校教育の違いについて考察する。
* * * 私は正直、なにかと「海外ではー!」と海外がいかに日本よりも優れているかを喧伝する「海外出羽守(かいがいでわのかみ)」は好きではありません。しかし、今回の「マスクをいつ外すか?」の判断に見られるように、「みんなが外したら」といった“日本風”の考え方には、かなり違和感を覚えます。本質的には、自分が必要だと思えば着ければいいし、不要だと思ったら外せばいい。
私のような意見に対して、「全体の輪を乱す」と思う人もいるかもしれませんが、「みんながやってるから、私もやる」という考え方で、本当に幸せなのでしょうか? そして、そうした“周囲に同調すること”を最優先にする考え方は、学校教育を受ける過程で植え込まれているのではないか、と感じます。同調とはやや種類が異なりますが、学校生活での「連帯責任」も考え方は近いものがあります。
例えば私が中学1年生の時所属していた卓球部では、遅刻する1年生がいたら、2年生の命令で1年生全員が近くにある市民体育館のランニングコース(約400m)を20周させられました。さらに「1年生は2学期まではラケットを握らせない。基礎体力をつける訓練だけしろ」と、走ったり腕立て伏せをしたりさせられるばかりでした。
今考えると、なんで2年生はあんなにエラソーだったのか全くわからないのですが、1年生は全員、黙って2年生の方針に従いました。「空気を読めない奴」認定されるのを避けたいため、異議を呈せないのです。
アメリカでは「基本的に自由だが本当に悪いことをしたら処罰」
私はその後、中学後半から高校時代をアメリカで過ごすことになるのですが、アメリカで出会った学生たちは、誰も“人がやっているから自分もやる”という考えは持っていなかった印象で、個人的には大変過ごしやすい価値観でした。
こうした考え方の違いは、やはり日米の学校教育の違いから生じている面が多そうです。どちらにもいい面、悪い面があると思いますが、私が通ったアメリカの中学・高校と一般的な日本の学校生活の違いについて実例を並べてみましょう(アメリカの例はあくまで30数年前、私の体験ベースです)。
●主な学校行事 【日】入学式・始業式・終業式・定期試験・夏休みの宿題・遠足・修学旅行・社会科見学・体育祭・文化祭・合唱祭・授業参観・卒業式 【米】ホームカミングパーティー(ダンスパーティー、任意参加)・プロム(ダンスパーティー、任意参加)・試験(不定期)・体育(スポーツは選択制)・遠足・卒業式
●部活 【日】ほぼ全員参加 【米】自由参加。スポーツの場合、秋・冬・春で異なる部活に参加し、自分の得意分野を把握する
●規則 【日】基本的に制服。その他「茶髪禁止」「買い食い禁止」等多数 【米】服装は基本自由(ただし、タバコないしは酒類のブランドのロゴが入っていたら裏返させられる)。学校では「銃器・刃物を持ってくるの禁止」「授業中の退出禁止」「ドラッグ持ち込み禁止」
●連帯責任 【日】あり 【米】個人の問題であり、他の生徒はお咎めなし
アメリカの学校では、突然廊下で殴り合いが発生するなど無茶苦茶な面もありましたが、その時は、屈強なガードマンが事情聴取用の部屋に連れて行き、停学や退学処分にします。とにかく「基本的には自由だが、『本当に悪いこと』をした場合は徹底的に処罰します」という方針なのです。対して、日本は、「実害の有無にかかわらず、ルールはルール。よってルールを破った人が1人でもいた場合、全員に注意を与えることがあります」という感じ。
日本で制服を導入する学校が多い背景は、一説によれば“私服にすると、貧富の差がバレバレになる”とか、“とりわけ女子は、オシャレな子がいると嫉妬や競争意識が生まれてしまい、面倒なことになる”といった理由もあると言われます。たしかに無駄な嫉妬が生まれないという“メリット”はあるかもしれませんが、結局、それも“人は人、自分は自分”と思えないことに起因する厄介さなわけで、ルールが多く、制服生活に慣らされた結果、“人と違うことが許せない大人が出来上がる”と考えることもできますよね。
私は日米の教育を両方経験したことで、「自分はこう思う」と、しっかりした自分なりの意見をもつ考え方を自然と習得できたのかな、と捉えています。
【プロフィール】 中川淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう):1973年生まれ。ネットニュース編集者、ライター。一橋大学卒業後、大手広告会社に入社。企業のPR業務などに携わり2001年に退社。その後は多くのニュースサイトにネットニュース編集者として関わり、2020年8月をもってセミリタイア。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)、『縁の切り方』(小学館新書)など。最新刊は『よくも言ってくれたよな』(新潮新書)
マイコメント
どうしてかくも学校というのは均一なものを要求するのだろうか?
文部省の指導要綱に罹れているからなのか?
あるいは学校自体に昔から存在する教育思想が問題なのか?
学校でいろいろ行われてる内容を見ると戦時中のやり方と何ら変わりはない。
それでも、私が学生だった頃は今と比べれば自由の幅が大きかった。
多少のはみだしは先生が許してくれたからです。
学生だからまだ世の中を知らないで取る行動だと大目に見てくれ、一方で
次からはやってはいけないという指導付きだった。
制服を破ったり、襟を広げたり、ボタンを外す、帽子を斜めに被ったりして登校する
生徒もいたが、喧嘩でもしない限り注意で済んでいました。
ところが今はそうした寛容な先生がいないのです。
すべて同じでないといけない。
特に校則にそれが現れていて、下着は白と決められ、先生から中を覗き込まれる
ような検査を受ける学校もある。
紙の色も黒ではないといけないとされ、少しでも色が違うとパーマを強要され
従わないと厳罰です。
まるで軍隊そのものです。
誰がそれを決めているかと言われれば教師です。
教師自体がそういう思想に染まっていて抜け出せないので子供にそれを強要し
教師自体はおかしいとはまったく思わない。
どうも、戦後吹き荒れた日教組の持つ共産主義思想の根底にある平等主義の
元に行われた教育を受けた子供が今になって教師になっているからです。
平等=みんな同じでなければならない。
というものです。
半世紀かけて熟成されたものが今現出しているような気がします。
悪しき平等主義です。
それが戦後まもなくと今の差かもしれない。
その他こういう問題もある。
【教育】「プール」は×、「ぷうる」が○と“指導”する教師…「入学前に知り過ぎている」のは悪い?
幼い頃から文字や数字に興味があって、小学校入学前に片仮名を覚えていた子がいました。その子が、小学校入学後の作文で、「プールでおよいでたのしかったです」と書いたら、「片仮名はダメ! 平仮名で書きなさい!」と先生に大きくバツをされました。
そこで、「ぷーる」と書いたらこれもバツ。「ー」は片仮名で使う記号だから「ぷうる」と書かなくてはならない、というのです。これって、おかしくありませんか。
【一覧】こんなにある! 小学校で習う「部首」7分類
自分の名前を漢字で書いて、叱られる
小学校に入学したらまず、平仮名から学びます。片仮名を教わるのはもう少し後になってからです。でも、子どもは小さい頃から、ファミリーレストランのメニューなど、日常的に片仮名をよく目にしているものです。
子どもは片仮名も漢字も区別なく、どんどん吸収していきます。2歳くらいの子どもでも、「アンパンマン」「メロンパンナちゃん」といったキャラクターの名前を覚えると同時に、片仮名も自然に覚えていきます。 子どもは興味を持ったものを文字にして書きたくなるので、いつの間にか片仮名の書き方も覚えてしまうことがあります。先述の子も、片仮名で表記されているものは、片仮名で書いていました。ところが、小学校に入学した途端、片仮名で書くことを否定されてしまいます。学校の先生によれば、その理由は「まだ教えていないから」。もちろん、許容範囲の広い先生もいますが、そうではない先生も実際にいます。
これは、私が学習塾を経営していた頃、ある保護者から受けた相談です。 「幸せな人生を歩んでほしい」と願って、わが子に「幸子」と命名した田中さん(仮名)。子どもが持ち帰ったテストを見ると、名前の欄に書かれた「田中幸子」の「幸子」に大きくバツがされていました。母親が担任に抗議したところ、「“幸”の漢字はまだ国語の教科書に出てきていないので、書いてはいけません」「落とし物をしたとき、手元に戻ってきませんよ」と言われてしまったのです。わが子に心を込めてつけた名前にバツをされ、母親は悲しい思いをしたそうです。
この先生の言い分としては、名前の漢字を書くときは、「たなかさちこ」→「た中さちこ」→「田中さちこ」→「田中さち子」→「田中幸子」と、教科書に出てきた順に従って名前の漢字を使わなければバツをつける、ということなのでしょう。名前だけでなく、「学校」という表記も「がっこう」→「学こう」→「学校」と表記するように教える先生もいます。
現在は、学年別配当漢字で習っていない漢字も、振り仮名を付ければ、学校で子どもに渡すプリントやテストに載せてもよいことになっています。これを知らない勉強不足の先生が、自分の考えで、「まだ自分が教えていないものは、知っていても書くな」と言っているのかもしれません。自分の名前に振り仮名を付けるのは、何となくはばかられるかもしれませんが、幸子さんは振り仮名をつけていれば指摘されないで済んだのかもしれませんね。ただ、先生からは「嫌みだ」と思われるかもしれませんが…。
「もう知っている」を煙たがる?先生
子どもは自分が知っていることを言いたがります。それは、他の子をばかにしているわけでも、自慢したがっているわけでもなく、「知っているから話したい」だけ。文字も同じで、「知っているから書きたい」のです。
ただ、小学校の教師の中には、「入学前にいろいろ知識を入れられると、授業がやりにくくなるから困る」と、まだ学校で教えていないことを「もう知っている」「もう書ける」と言う子どもを嫌がる人も実際にいます。しかし、「知り過ぎていると小学校入学後に授業を妨げるから、幼児期にいろいろ教えないでほしい」というのは、先生の勝手な都合なのではないでしょうか。
未就学の子どもが、学校で習う以上の知識を持っていることは果たして、本当にいけないことなのか――。「入学前に知り過ぎている」ことは決して悪いことではないと私は思います。皆さんはどう思いますか。
引用→https://news.yahoo.co.jp/articles/d9cf7512cd4ad03ddbaf58b7b6a0bd6c84f6c65f
ア歩丸出しの学校教育です。
昔なら先生に「よく勉強してるね」と、褒められた内容です。
全体に沿わない生徒を嫌がる先生の思想がそこにあります。
自分の名前すら習得してない漢字を素買ってはダメ。
このまま育った子供は大人になってからどうなるのかと不安になります。
コメント
日本人がマスク外せないのは他人の目を気にしている。学校の教育でしたか。でも、私は外では他人の目を気にせずマスク外してます。日本はみんなマスク外したら、外すとなると、ずっとマスクしていなければならなくなります。
マリー 様
マスクをしない方が良いですが、サル痘が流行した場合は接触感染が
主な感染機会になりますので、この場合はマスクは全く効果はありません。
感染者と手が触れれば(感染力がどれだけ強いかに寄りますが)感染する
ので、対策は本当尾の意味で隔離策しかなくなると苞移動し始めるでしょう。
つまり、同居人や家族内感染が起きるからです。
また、致死率がどのくらいかに寄りますが、致死率が高い場合隔離された後
良き別れになる可能性がありますね。
上記はサル痘ウイルスが人工的に作られた場合です。
とはいえ、真実はワクチン接種した人がサル痘を発症している可能性と
自己免疫力低下でサル痘ウイルスに感染しやすくなっていることも
あるので、今後全世界で爆発的に増加する可能性を秘めています。
日本がインバウンドを開始したのはわざとであり、海外旅行者に紛れて
サル痘感染者を国内に入れこませるのが目的だろうと思います。
さらに、ワクチンは天然痘ワクチンを使いますが効果がありません。
でも、政府は効果ありと喧伝して打たせるでしょう。
再度日本人がこの詐欺行為にひっかるかどうかわかりませんが、天然痘
ワクチンの致死率自体が高そうなので絶対に打たないように。