タコ部屋、風呂なし、飢餓、強盗…極貧状態の男がショパン・コンクールで世界2位のピアニストになるまで
審査員にこの曲は知らないと言わせ、ポテト1袋を毎日食べ続けた男
ひまわりの種を食べて飢えをしのぐ
「ロシアのチャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院からスカウトされ、モスクワへ留学した」という経歴を見て、「反田恭平=将来の成功が約束されたサラブレッド」と錯覚する人もいるかもしれない。反田の新刊には、ロシア語がまったくわからない状態でモスクワへ飛びこみ、貧乏学生生活を耐え忍んだ苦労話が赤裸々に綴られている。
〈国立モスクワ音楽院の学生寮は、1000人は収容できそうなマンモス寮だった。1階は男女共用部屋が並び、多くのカップルが一緒に住んでいた。2〜3階は女性専用フロア、4〜5階は男性専用フロアだ。5階建ての寮の廊下は100メートル走2本分くらいの長さがある。部屋には2段ベッドとシングルベッドが置いてあり、2人ないし3人が同部屋で暮らす。両手を伸ばすと両手とも壁にぶつかるような狭い居住空間だった。〉(『終止符のない人生』47ページ)
世界中から集まってきたスーパーエリートたちに、それぞれ広い個室とピアノが与えられているわけでもない。狭いタコ部屋に押しこまれ、鬼教官から毎日シバかれる厳しい学生生活がスタートした。
〈入寮するときには荷物なんてほとんどもっていかなかった。現金は少しだけもっていたが、クレジットカードなんてない。ロシア語も何一つ知らないし、「腹減ったなあ。誰かメシ作ってくれないかなあ」と途方に暮れた。
『地球の歩き方』を読むと「ロシアの水道水は飲まないほうがいい」と書いてある。硬水のため、水道水をそのまま飲むと石灰が体内に蓄積され、尿路結石症になってしまうのだ。ペットボトルの水を買うこともできず、水道水を口にするわけにもいかず、モスクワに着いてから2日間は水も飲めなかった。〉(『終止符のない人生』48ページ)
〈「ごめん。今僕の部屋にはこれしかないんだ」
【※先輩が】そう言ってペットボトルの水とひまわりの種をくれた。ロシア人は、ひまわりの種をよく食べる。普通はフライパンで種をあぶり、皮が少しめくれた状態で食べるのだが、そんなことは知らないから生のまま種を食べた。飢餓状態で口にしたひまわりの種は、おつまみやナッツみたいでとてもおいしかった。水とひまわりの種から、僕のロシア生活が始まったのだ。〉(『終止符のない人生』49ページ)
お湯が出ないシャワールームで
信じがたいことに、国立モスクワ音楽院の学生寮は、トイレに便座すらついていない劣悪な環境だったそうだ。
〈寮のトイレに便座がないのには閉口したし、ときどき断水があるのも困った。半日だけ止まるのなら我慢できるが、寮があるブロック全体で1週間も断水が続く。食器も洗えないし、トイレを流すこともできない。
基本的に寮生は、断水が始まると1週間風呂に入らないのがあたりまえだった。風呂に入りたい時は、5〜10リットルの水が入る大きなタンクをもって水くみに出かける。その冷たい水をチマチマ使って、髪の毛や体を洗わなければならなかった。
電力が不足しているのか、ボイラー(給湯設備)がおかしくなっているのか理由はわからない。冬場になるとお湯が出にくくなるのは日常茶飯事だった。モスクワに来て最初の冬、ある日、寮の地下にあるシャワールームに出かけたら、遠くから「ウワーッ!!」と叫び声のようなものが聞こえてくる。「シャワーを浴びながら歌っているやつがいるな」と思ったら、自分の頭の上から冷水が噴き出してきて「ウワーッ!!」と叫んだ。〉(『終止符のない人生』51〜52ページ)
真冬のモスクワは、マイナス15度どころか、ひどいときにはマイナス25〜30度まで気温が下がる。
〈部屋の窓が壊れているせいで、マイナス温度の隙間風がビュービュー部屋の中に入ってくる。暖房も故障気味で調子が悪いし、とにかく朝は寒くて布団から出たくない。〉(『止符のない人生』53ページ)
「カネがないんだわ。よこせ」
モスクワ留学中の反田恭平は、ときに命の危険を感じる恐ろしい経験に直面した。
〈食事に出かけようと思って寮の階段を降りている途中で、知らない人から声をかけられたことがある。映画「アラジン」で盗賊がもっているような、刃渡り40センチくらいの湾曲した刃物を首元に突きつけられた。ちょっと言葉遣いを誤ったら、シュッとかき切られてしまうパターンだ。
「カネがないんだわ。よこせ」
ストレートに恐喝され、刃物を突きつけられたまま2〜3分膠着状態が続いた。 「おいおい、ちょっと待ってくれよ。オレは学生だし、カネなんてもってないんだわ」
なるべく落ち着いて対応し、興奮する相手をなだめてなんとか乗り切った。〉(『終止符のない人生』54〜55ページ)
恐ろしい経験をしたことはほかにもある。
〈スリはあちこちにいるし、脅されて刺されることだってありうる。いつもまわりをキョロキョロし、命の心配をしながら寮と学校を行き来していた。
寮の部屋では、発砲音もときどき聞こえてきた。ルームメイトと一緒に「花火だ! 窓開けようぜ」と言って外を見たら「ギャーッ!」と叫び声が聞こえてくる。花火の音だと思ったら、ピストルを発砲する破裂音だったのだ。〉(『終止符のない人生』55〜56ページ)
何でも準備されてVIP待遇を受けながら、ショパンコンクール第2位の天才が誕生したわけではない。故・松下幸之助は「若いときの苦労は買ってでもせないかん」と言ったそうだ。何もかも恵まれた環境に身を置かず、敢えて厳しい環境で苦労を重ねたおかげで、天才・反田恭平が誕生した。
この記事の1部、2部は下記からお読みいただけます。
大変興味深いエピソード満載ですが、著書をお読みなられた方がもっといいでしょう。
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当時22歳だった内田光子さんが日本人として初めてショパンコンクール2位に選ばれたのが
1970(昭和45)年12月22日です。
そして、その後ピアニスト横山幸雄さんが日本人として当時歴代最年少の3位入賞を果たした
のが1990年10月です。
その前後に4位、5位はありましたが3位以内に入賞できた人はいませんでした。
それが5年毎に開かれるショパンコンクールが2021年10月に行われ2位に反田恭平さんが
選ばれ51年ぶりの快挙となった。
その時のことやそれまでの系譜を語った本が下記の「終止符のない人生」 でした。
反田さんの面白いエピソード満載で読んでおいて損はないと思います。
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